アンビリバボー!とはこの事です。

こんちは!管理人のハバネロです。

 

第2次大戦中に日本がアメリカ本土に

もたらした被害があったのをしって

いますか?

 

ミッドウェー以降、劣勢を強いられた

日本軍の苦肉の策による風船爆弾

なる兵器が一部被害を出して死傷者も

いたのは知ってますが、

 

それ以外に、『有人の戦闘機による

爆撃』があったことを。

 

管理人、勉強不足で知りませんでした。

結構衝撃ですねー。

 

この爆撃を成功させた人物こそ

藤田信雄さん。

 

もうすでに故人ではありますが

なんとレーガン元大統領から直々に

星条旗を贈与されたそうです。

 

なぜ爆撃したほうがされた方から

贈与されたのか?

 

藤田信雄さんの経歴や戦後の仕事

家族や星条旗を贈与された理由

家族のことなどを調べて

みたいと思います

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藤田信雄の経歴は?プロフィールも

  • 名前:藤田信雄 (ふじたのぶお)
  • 生年月日:1911年10月
  • 没年:1997年9月30日
  • 出身地:豊後高田市
  • 軍属:大日本帝国海軍
  • 階級(最終):海軍中尉

 

プロフィール的なものは上記になります。

では経歴を見ていきましょう。

 

藤田信雄の経歴は?

藤田さんは1932年に帝国海軍に

入隊します。

 

21歳の時ですね。恐らくは志願兵で

あったのではないかと思われます。

 

日本帝国海軍の入隊は誇らしかった

のではないでしょうか?

 

二年後に、パイロットになってますね。

 

その後、真珠湾攻撃を境に彼の人生は

一変していきます。

 

真珠湾攻撃時もかれは日本海軍所属の

潜水艦『伊25】に搭乗。

 

この時は、艦載機の不調により作戦には

加わっていなかったそうです。

 

その後も、戦地を伊25と共に転戦し

遂に、今回の物語の中核となる

 

『アメリカ本土爆撃作戦』の日がきます。

 

1942年、4月21日、藤田さんは軍部に呼び出し

を受けます。呼び出した内容は上記のとおり

アメリカ本土爆撃。

 

しかも、単独爆撃というリスクが非常に

高い作戦でした。

 

藤田さんも、この時は生きて帰れる自信は

全くなく、遺言状を家族にしたためてます。

 

1942年、9月、伊25にてアメリカのカリフォルニア

州とオレゴン州の州境の西に浮上。

 

そこから藤田さんは複座に奥田兵曹をのせ

焼夷弾をつんで爆撃を開始します。

 

この時の爆撃の目的は、アメリカの士気

をそぐことや、国力の疲弊を狙っており、

 

都市部を狙うのではなく、森林火災をね

らったものだったそうです。

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つい最近のカリフォルニア大火災をみて

わかるように、時期によっては大ダメージ

を与えることが可能になります。

 

藤田さんの爆弾はオレゴン州の山に着弾

しましたが、前日に雨が降っており、大した

被害を出すことなく鎮火。

 

帰国後は、上官からは『木を一本折っただけ

ではないか!』と叱責されたそうです。

 

そういわれましてもって感じですよね(笑)

結果がすべてな戦時中の様子を浮き彫り

にするエピソードです。

 

その後、もう一度爆撃を3週間後に

決行するのですがこちらはアメリカ側の

公式の被害記録はなし。

 

ただ、藤田さんは炎が上がったのを

確認しているそうです。

 

この作戦後も藤田さんはパイロットと

して任務を続行。

 

1943年に鹿児島海軍航空隊に着任

教官になります。

 

大戦末期、教え子が特攻へ向かうのを

見送るだけでは忍びないとして

自身も特攻へ志願。

 

しかし出撃する前に敗戦を迎えます。

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藤田信雄の家族や戦後の仕事は?社長で取締役だった?会社は?

 

藤田さんは戦後、地元に戻り

焼け跡の中から自分で立ち上がりました。

 

自営で金物屋さんを経営。

家族の為に行商から始め、藤田金属という

一企業になるまで一代で築き上げます。

 

その後、息子さんの代になると

業績が悪化。倒産してしまいます。

 

しかし、戦前生まれはやはり強い。

海軍時代のつてで教え子を頼って

運転手として教え子の元に再就職。

その後、工場長になり最後は

取締役にまで昇進します。

 

すごいですね。教え子も恩義を感じて

はいたと思いますがそれ以上に能力を

評価しての事でしょうね。

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藤田信雄がレーガン大統領から星条旗を贈与された理由

 

実は、藤田さん、アメリカの女子高生を日本の

バンパクに招待しています。

 

その理由としては、ある出来事があり

その感謝として平和を願っての行動だった

そうです。

 

藤田さんは戦後の昭和37年に

当時の官房長官から連絡が入ったそうです

藤田さん宛にある手紙がアメリカから

届いていたのです

 

その内容はこのような物でした

「アメリカは開国以来、外敵の侵入を許したことがなかった。日米戦争において貴殿はこの史上の記録を破って、単独でよく、アメリカ軍の厳重なレーダー網をかい潜り、アメリカ本土に侵入し、爆弾を投下した。貴殿の勇気ある行動は敵ながら実にあっぱれである。その英雄的な功績を讃え、さらなる日米の友好親善を図りたい」

素直に受け取れないですよね。

Vシネマでよくありそうな展開です。

 

Vシネマなどではこうして出向いたら

大体ダメなパターンですね(笑)

 

勿論そういう可能性もあるとして当時の

官房長官も国としてのスタンスを説明

してます。

 「我々は、外務省を通じてあなたの身元をアメリカに伝えました。アメリカは、真珠湾攻撃や捕虜虐待などで日本軍人への反感はまだ相当に根強いものがあります。しかもあなたはアメリカ本土を爆撃した唯一の日本人です。万一、渡米して、報復を受けたとしても、日本政府はあなたの身を守ることができません。日本政府は藤田さんが渡米されても一切関知しません。」

まぁ、そらそうですよね。

可能性は0ではなく、一部の人が

凶行にはしれば99%大丈夫でも

1%で死ぬ可能性もあるのですから。

 

それに対して藤田さんは

「私も軍人の端くれ、万一の場合は、彼らの前で、腹を切る覚悟です。日本刀を持って乗り込むつもりですよ。」

と返答します。かっこよすぎですね

 

この時の日本刀についてまた後で。

 

そして実際に渡米した時

思いもよらない歓迎をうけたんだ

そうです。

 

この時の感謝が最初にあった

3人の女子高生の招待につながります。

 

しかも自身の会社が倒産している

のにちょっとづつ資金をためて実現

したんですから涙無くして語れない

ですよね。

 

この行為に感銘を受けて、レーガン大統領

は藤田さんに星条旗と感謝状を贈った

そうです。

 

こういう人道的な部分では非常に

友好的に見えるんですが政治経済が

からむと国と国ってやっぱり

溝ができるのが残念でなりませんね。

2P目には藤田さんの刀について。

 

2P目に続きます!