
こんちは!管理人のハバネロです。
みなさんはパプワニューギニアって
行った事あります?
管理人はないんですけど部族が
多いってイメージですよね。
島がたくさんあるってイメージ
もあります。
そんなパプワニューギニアで
ビッグマンと呼ばれ尊敬される
日本人がいるらしいんです。
調べてみると川畑静さんとおっしゃる
方の様で、、
ある偉業を成し遂げたことでパプアニューギニアの人々から“ビッグマン”と呼ばれ尊敬されている男性。英雄と称される一方で「生き恥をさらした」と語る、その波瀾万丈の人生とは?ヤフーテレビ欄より引用
彼がなぜビッグマンとよばれるのか?
理由や経歴などを調べてみました。
ナゼそこに日本人の記事はこちらも
お勧めです。
パプワニューギニアのビッグマン川畑静の経歴は?

出典元:http://www.geocities.jp/friendsofpng/sub3.html
川畑静さんは1926年に長崎の
佐世保で生まれました。
父親からカメラを買ってもらったりと
割と裕福な家庭であったと推測されますが
太平洋戦争はそんな川畑さんの生活を
一変させます。
ご存知の通り、敗色濃厚となった
日本軍は起死回生の一手として
玉砕行動、特攻隊を編成。
川畑さんもその隊員の一人で
空撃ではなく、海中から敵戦艦を
しずめる人間魚雷【回天】の
乗組員として参加します。
回天は出撃すると最後、命中するか
酸欠で死ぬしかないという悲劇の兵器。
川畑さんの仲間も国の為、家族の為と
次々に死地へと赴いたそうです。
しかし、幸運にも(当時の川畑さんの心境
を考えるとそうではないかもしれませんが)
川畑さん出撃の6日前に終戦となり
川畑さんは生きながらえることができます。
その後は、父に習ったカメラで生きることを
考え、カメラマンとして生活をしていく
事になります。
実はかなり有名なカメラマンだそうで
業界の人からは一目置かれた存在だった
そうです。
報道カメラマンとしてパプワニューギニア
へ渡り、昭和59年頃にホテルの経営再建の
誘いを受けます。そして現地へ移住。
現地の女性と結婚して娘さんもおられます。
2018年4月10日、享年91歳の
大往生で永眠されています。
川畑静のホテル【ニューウエワクホテル】の場所は?年収(収入)は?
川畑静さんのホテルは
ニューウエワクホテルといいます。
上記にもしましたがホテル再建の
案件になったのがこのホテル。
このホテルは川畑さんが借金の
肩代わりをしたしたのをきっかけに
オーナーが川畑さんになったそう。
その借金の額5000万(;^ω^)
根性と努力の末に借金を
完済。
年収や収入についての
情報はなかったのですが
ホテルの従業員が50人ほど
抱えていた事から、それなりに
収益があったと思われます。
貧困から抜け出すきっかけを
作ってくれたと感謝されている
そうです。
ホテルの場所はこちら。
半島の先っちょに位置する
場所ですねー。こういう立地好き(笑)
恐らく川畑さん亡き後は娘さんが
事業を継いでいるのでは?と思います。
ホテルのFacebookの更新は4月10日
以降も続いていましたので。
川畑静はなぜパプワニューギニアでビッグマンと呼ばれている?
その理由とは?
川畑さんが何故ビッグマンと
パプワニューギニアの現地の人
に呼ばれているか?
その理由はやはり人としての
すばらしさでしょうね。
ホテルの再建を頼まれ
現地へ移住した川畑さん。
その14年後にアイタペで大津波
が発生します。
1998年7月17日に発生した
マグニチュード7・0の地震は
アイタペという町を襲います。
死者・行方不明者合わせて
2200名。重傷者1000名
住宅を失った人が1万人にも
およんだ大災害でした。
その時、川畑さんは被災難民に
ホテルを無料提供。
さらに、道路が寸断されて
救援物資が送れない事態には
オーストラリア軍に交渉してまで
救援物資を送ったんだそう。
その行動が現地の人の心に響いた
のでしょうね。
尊敬と感謝の念を込めて
【ビッグマン】と呼ばれるように
なったそうです。
偉大な男って意味ですかね?
川畑静の生き恥をさらしたとは?
ヤフーテレビ欄の予告で気になるワード
生き恥をさらした。。。
これについてはもうお分かりだと
思います。
恐らくは人間魚雷【回天】の
搭乗員になりながら、仲間が
次々に散っていくのを見送って
自分は生きている事を悔やんでの
セリフだと思います。
しかし生きていたからこそ、
パプワニューギニアの人々を
救うことができた訳で。
散った戦友は国の為にと
命を散らしたわけですが、
川畑さんの人間としてのすばらしさを
向こうで称賛してるやもしれませんね。
まとめ
パプワニューギニアでビッグマンと
呼ばれていた男は、元カメラマンで
ホテル再建を手伝い5000万の借金を
返済した川畑静さん。
アイタペの大津波の際に
ホテルを難民に無償提供して
物資の流れを滞らせぬように
オーストラリア軍に交渉などを
したことでビッグマンと
呼ばれている。
人間魚雷回天の乗組員であったが
出撃のわずか6日前に終戦。
それにより生きながらえており
仲間に申し訳がない気持ちを
胸に抱いていた。
91歳で永眠。
いやはや、戦前の人の生き様って
戦後生まれにはものすごいドラマを
ふくんでいると感じますよね。
リアルに生死を体験した世代の
エネルギーはものすごいです。
そのエネルギーをもって
貢献できる人間性。すばらしいの
一言ですよね。
最後までご覧いただき
ありがとうございました!