偉人伝ってすきな

管理人のハバネロです

 

こんちは!

 

さて、今回の世界ナゼそこに

日本人では第一次世界大戦下で

ドイツ人捕虜1000人の命を

すくった日本人が紹介されます。

 

その人の名前は松江豊寿

徳島県にあった坂東俘虜収容所の

所長でもあった彼の経歴を見てみましょう

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松江豊寿のプロフィール

まずは簡単にプロフィールから

  • 名前:松江豊寿
  • 読み:まつえとよひさ
  • 生年月日:1872年7月11日
  • 出身地:徳島県若松さ市
  • 死没年:1956年5月21日
  • 軍歴:1894年~1922年
  • 最終階級:陸軍少将

最終的に少将まで登って

ますね。

 

階級的には上から3つ目。

長い軍属生活の末に

手に入れた称号です。

 

では経歴を見てみましょう

松江豊寿の経歴は?

1872年の6月に

会津藩士で警察官の息子として

生を受けます。

16歳で仙台陸軍地方幼年学校

へ入学。

 

1892年に陸軍士官学校へ入学

22歳の1984年に陸軍歩兵少尉と

して任官。

 

陸軍士官学校卒という事も

あり優秀な人物であったと

思われます。

1904年には韓国駐在軍

司令官付きの副官に任命。

1907年には浜松歩兵67連隊付少佐に。

1908年には同連隊大隊長

1911年には第七師団副官。

日露。日清戦争後に

1914年に陸軍歩兵中佐となり

徳島歩兵62連隊付となる。

 

この徳島時代に、今回紹介される

ドイツ人との交流が起きるわけ

ですね。

 

徳島俘虜収容所とドイツ人捕虜と松江豊寿

 

第一次大戦が勃発後、青島の戦いで

ドイツ軍は日本に降伏します。

 

その捕虜の受け入れ先の一つが

徳島の俘虜収容所。

 

第一次大戦勃発の年に松江豊寿は

収容所の所長に任命されます。

 

その後、徳島俘虜収容所などの

収容施設を坂東にまとめられ

坂東俘虜収容所として稼働。

 

松江豊寿も併せて坂東俘虜収容所所長に。

 

ここでドイツ人に対して人道的な

扱いをすることでドイツ人から

絶大な感謝と信頼を得るわけです。

 

松江豊寿がドイツ人におこなった扱いは?

調べてみたら破格の待遇だった

ようです。

 

当時の捕虜の扱いは

非衛生な寝具は当たり前で

地獄のような生活なのが

一般的。

 

松江豊寿の坂東収容所では

自身の収容所に

図書館、印刷所、製パン所

製菓所などもあり

 

ビールやチーズにソーセージも

収容所で作っており

それらを自由に買う事ができたそうです。

 

かなり自由度の高い生活が

送れていたようで、

 

地元民との交流も松江の方針で

活発であったそうです。

 

農業を教えるもの、器械体操や

蒸気エンジンの修理を教えるもの

他にも酪農や建築なども地元民に

教えていたりしたそうです。

 

これらが収入となり、地元民よりも

お金持ちな捕虜であったといいます。

 

捕虜のイメージからは到底考えられ

ませんね。

 

他にも脱走兵に温情をかけ

なおかつ脱走兵の元の仕事で

あるパン制作をさせてみたり

と人の心に届くさい配をする

愛情深いひとだったそうです。

 

そんな松江豊寿の収容所ですが

はたから見るとやはり甘すぎると

映るようで陸軍本部より予算削減の

いやがらせを受ける事もあった

そうです。

 

これには松江豊寿も憤慨。

わずか5000人で数万相手取り

戦った勇士に対して失礼だ

として戦いますが、むなしく

予算は削られてしまいます。

 

しかし、削減された分を賄う

為に山を買い、捕虜に山を伐採

させてそれを施設燃料にすることで

節約するなどをしたそうです。

 

その際、事情をしったドイツ兵は

自ら志願して伐採を行って

いたそうです。

 

人と人をつなぐのは気持ちで

あると感じるエピソードですね。

ドイツの宝 ベートーベンの第九を演奏!

 

実はこの坂東収容所、日本で初めて

ベートーベンの第九が演奏された

場所でもあります。

 

第一次大戦が終結。

その際に松江豊寿はこのように

述べています。

私はまず、このたびの戦争で亡くなった敵味方の勇士に対して哀悼の意を…、もとぃ、今、私は敵味方と言ったが、これは誤りである。去る6月28日の調印終了の瞬間をもって、われわれには敵味方の区別はなくなった。今や諸君は捕虜ではなく、一個の自由なるドイツ国民となったのである。

 

すでに諸君が想像しているように、敗戦国の国民生活は悲惨なものである。どうか困難にめげず、祖国ドイツの復興に尽力してもらいたい。

1919年の事です。

そして今までお世話になってきた

坂東の住民にたいして感謝の意を

こめてベートーヴェンの第九を

演奏することに。

 

日本各地のドイツ関係の施設から

楽器をそろえ鳴り響く音で

坂東収容所は感動の嵐につつまれた

といいます。

 

演奏前に青島の戦いで総督だった

ハインリッヒ少将はこのように

述べていたそうです。

 

青島での戦闘に敗れ、われわれは捕虜となって、この地へ参りました。私はいま、誇りをもって、この地を去ることができます。それは松江所長のおかげです。

 

松江所長は、私の人生で、もっともつらい時期に、勇気と力を与えてくれた。勇気と力――。我々は、ベートーベンのフロイデ(歓喜)を感謝のしるしとして、皆さんにプレゼントしたい。世界のどこに、バンドーのようなラーゲル(収容所)があったか! 世界のどこに、松江のようなラーゲル・コマンダー(収容所長)が…http://www.mag2.com/より引用

最後は感謝の涙で声にならない

声で語ったというハインリッヒ少将

 

感謝の意として贈るベートーベンの

第九はまさに日本とドイツの友情の

架け橋となる宝だったのかもしれません。

 

少なくとも坂東の住民にとっては

忘れる事の出来ない演奏だったと

思います。

まとめ

松江豊寿は

坂東収容所の所長。

 

過去の経歴葉

陸軍士官学校を卒業後

順当に階級を伸ばしていき

最終的には少将の位につく。

 

松江のドイツ人捕虜に対する

待遇は破格と言えるもので

ドイツ人も感謝の言葉を

世界のどこに坂東のような収容所が

あったか、世界のどこに松江のような

所長がいたか』と賛辞を送っている。

 

日本で初めて演奏された

ベートーベンの第九は

ドイツ人捕虜と坂東の住民らを

つなぐ宝であったと思う。

 

戦争っていやですけど

極限状態における友情の絆は

深いとおもいます。

 

もう当時の人は誰も存命して

はいないでしょうが、こういう話は

語り継いでいってほしいですね。

 

最後までご覧いただき

ありがとうございました!